釈尊の教え |
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(釈尊・略歴) 出家した釈尊は当時のインドの宗教で伝統的となっていた「苦行」に価値を見出す。6年にも及ぶ空前絶後の壮絶な苦行を行ったものの、体は極度に衰弱し、結局、悟りを得る事はできなかった。通りかかった村娘の捧げる乳粥を食べて、体力をつけた釈尊は「悟りを得るまでは決して立たない」と断固とした決意をもって、菩提樹のもとに座り瞑想に入る。悪戦苦闘の末、遂に釈尊はこの世の真理を見極め、悟りを得る。その後の45年に及ぶ伝道活動を通じて信者となった人の数は二千人を超えた。80歳のとき、病に侵された釈尊は弟子のアーナンダを伴いクシナガラへ行き、沙羅樹の林に横たわり最後の教えを説いた後、静かに涅槃に入った。
人間が経験する苦しみ。生、老、病、死の4つを四苦、これに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の4つを加えて、八苦と言う。釈尊はこれらの苦しみに直面し、その苦しみからの開放を目指し、出家した。
悟りを得た釈尊が、かつて共に修行した5人の修行者に対して行った最初の説法。その内容は「中道の思想」と悟りへ至るための道筋と実践方法である「四諦八正道」であった。
快楽を得、欲に溺れた生活は心を満たすものではない。しかしながら、体を痛めつける苦行も、また、悟りへの方法ではない。悟りへ至る方法は、その両極から離れた「中道」を行くことである。「中道」と言うと「中間的な道」、はたまた「中途半端な道」のように誤解されることがあるが、「中道」とは偏見をなくした中立的な立場にたって物事を見ることであり、「有−無」「善−悪」といった二元論的な考え方の否定である。
四諦とは悟りへ到達するための道筋のことであり、苦諦、集諦、滅諦、道諦の4つの過程を言う。
釈尊は悟りへ到る方法は「中道」であると言った。「中道」とは次の8つの正しい道(八正道)を実践することである。「八正道」とは正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
人間の心身の構成要素のこと。色・受・想・行・識の5つをいう。このうち識はさらに6つに分けられ、それらは「六識」と呼ばれる。
「六識」とは眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の6つの認識作用のことである。これら「六識」の原因となるものが、人間の感覚器官で感じられる眼・耳・鼻・舌・身・意の6つの主観「六根」と色・声・香・味・触・法の6つの客観「六境」である。「六根」と「六境」とが互いに相互作用することを「十二処」という。この「十二処」が原因となって「六識」という結果が生まれる。
「空」とは実体がないこと。実体がないとは、絶対的で、永久に不変な存在ではなく、因縁によって生滅するということ。五蘊はすべて「空」であることを理解することによって、一切の苦しみから開放される。般若心経の中にも「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是」とある。意味を書くと、「色は空でないことはない、空は色でないことはない、色は即ち空であり、空は即ち色であり、受・想・行・識もまた同じである」となり、五蘊がすべて「空」であると説いている。
釈尊が入滅する直前、釈尊の死後の事を不安に思う信者に対して行った最後の説法の内容。「自分自身を頼り(燈明)としなさい。そして、私を頼りにするのではなく、私の説いた法を頼りとしなさい」と釈尊は最期に言った。信頼すべきは釈尊自身ではなく、「法」であるという宗教家として在るべき姿がここにある。「私を崇め奉れ」と言わんばかりのどこやらの新興宗教の教祖とは大違いである。 |