釈尊の教え

(釈尊・略歴)
本名、ゴータマ・シッダールタ。紀元前5世紀初め頃、ヒマラヤ南麓の都・カピラヴィストゥに住むサキャ(釈迦)族の王子として生まれる。誕生と同時に7歩踏み出し、右手で上を、左手で下を指差し、「天上天下唯我独尊」と言ったといわれている。王子として何不自由なく暮らしていたものの、人や動物の「病」「老」「死」を目の当たりにし、憂鬱な日々を送る。これを懸念した父・シュッドーダナ王は一族の美しい娘・ヤショダラーを妃として迎える。ヤショダラーとの間にはラーフラという息子が産まれるが、釈尊の心は満たされることなく、29歳のとき出家を決意する。
出家した釈尊は当時のインドの宗教で伝統的となっていた「苦行」に価値を見出す。6年にも及ぶ空前絶後の壮絶な苦行を行ったものの、体は極度に衰弱し、結局、悟りを得る事はできなかった。通りかかった村娘の捧げる乳粥を食べて、体力をつけた釈尊は「悟りを得るまでは決して立たない」と断固とした決意をもって、菩提樹のもとに座り瞑想に入る。悪戦苦闘の末、遂に釈尊はこの世の真理を見極め、悟りを得る。その後の45年に及ぶ伝道活動を通じて信者となった人の数は二千人を超えた。80歳のとき、病に侵された釈尊は弟子のアーナンダを伴いクシナガラへ行き、沙羅樹の林に横たわり最後の教えを説いた後、静かに涅槃に入った。


四苦八苦

人間が経験する苦しみ。生、老、病、死の4つを四苦、これに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の4つを加えて、八苦と言う。釈尊はこれらの苦しみに直面し、その苦しみからの開放を目指し、出家した。
愛別離苦

愛する人と別れる苦しみ

怨憎会苦

憎んでいる人と会う苦しみ

求不得苦

欲しいものが手に入らない苦しみ

五蘊盛苦

心身の構成要素(五蘊)から生じる苦しみ全般

 
初転法輪

悟りを得た釈尊が、かつて共に修行した5人の修行者に対して行った最初の説法。その内容は「中道の思想」と悟りへ至るための道筋と実践方法である「四諦八正道」であった。


中道

快楽を得、欲に溺れた生活は心を満たすものではない。しかしながら、体を痛めつける苦行も、また、悟りへの方法ではない。悟りへ至る方法は、その両極から離れた「中道」を行くことである。「中道」と言うと「中間的な道」、はたまた「中途半端な道」のように誤解されることがあるが、「中道」とは偏見をなくした中立的な立場にたって物事を見ることであり、「有−無」「善−悪」といった二元論的な考え方の否定である。


四諦

四諦とは悟りへ到達するための道筋のことであり、苦諦、集諦、滅諦、道諦の4つの過程を言う。
苦諦

我々の生活は「苦しみ」に満ちあふれていることを見極める。

集諦

「苦しみ」の原因は欲望や執着心であることを見極める。

滅諦

「苦しみ」から逃れるには、その欲望や執着心を捨て去ることで あると見極める。

道諦

それを導く具体的な方法「八正道」を実践する。


八正道

釈尊は悟りへ到る方法は「中道」であると言った。「中道」とは次の8つの正しい道(八正道)を実践することである。「八正道」とは正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。

正見

偏見をなくし、あるがままの姿を見極める正しい見解をする。

正思惟

あるがままに見たものをあるがままに捉える正しい思惟を行う。

正語

曖昧さや偽りのない正しい言葉を話す。

正業

正しい行いをする。正しい行いとは、戒律にとらわれたものではなく、それらを超越した立場に立っての行いのことである。

正命

「怒り」や「恨み」などを生じさせるようなことはせず、淡々と正しい生活を送る。

正精進

他との比較をせず、あるがままの自分を受け入れ、正しい努力を重ねる。

正念

感覚を研ぎ澄まし、周囲のあらゆることに気を配る正しい集中力を持つ。

正定

正しい瞑想をする。瞑想とは「坐しての禅定」だけを意味するのではなく、日常生活において、誤った目的を持たない心穏やかな状態のことである。


五蘊

人間の心身の構成要素のこと。色・受・想・行・識の5つをいう。このうち識はさらに6つに分けられ、それらは「六識」と呼ばれる。

人間の肉体、あるいは我々が五感で認識することができる物や対象

物事を感受する作用

感受した物事を自覚する作用

自覚した物事に対して働く意志作用

自覚した物事を認識する作用


六識

「六識」とは眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の6つの認識作用のことである。これら「六識」の原因となるものが、人間の感覚器官で感じられる眼・耳・鼻・舌・身・意の6つの主観「六根」と色・声・香・味・触・法の6つの客観「六境」である。「六根」と「六境」とが互いに相互作用することを「十二処」という。この「十二処」が原因となって「六識」という結果が生まれる。


「空」とは実体がないこと。実体がないとは、絶対的で、永久に不変な存在ではなく、因縁によって生滅するということ。五蘊はすべて「空」であることを理解することによって、一切の苦しみから開放される。般若心経の中にも「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是」とある。意味を書くと、「色は空でないことはない、空は色でないことはない、色は即ち空であり、空は即ち色であり、受・想・行・識もまた同じである」となり、五蘊がすべて「空」であると説いている。


自燈明・法燈明

釈尊が入滅する直前、釈尊の死後の事を不安に思う信者に対して行った最後の説法の内容。「自分自身を頼り(燈明)としなさい。そして、私を頼りにするのではなく、私の説いた法を頼りとしなさい」と釈尊は最期に言った。信頼すべきは釈尊自身ではなく、「法」であるという宗教家として在るべき姿がここにある。「私を崇め奉れ」と言わんばかりのどこやらの新興宗教の教祖とは大違いである。

歌と科学と仏教と